10月20日(日)、陽願寺では、創建五五〇周年慶讃法要が勤修され、10月19(土)・20日(日)の2日間に亘り、特別事業が開催されます。
陽願寺は、室町時代、本願寺蓮如上人の教化を受け、出雲路山毫攝寺善鎮上人によって建立されました。以降、本願寺歴代宗主との関係を保ち、大きく発展し、江戸時代には「御堂」「御坊」と称されました。
この度、創建五五〇周年慶讃法要が勤修されるとともに、特別事業として陽願寺の歴史や文化の魅力を発信します。また、当寺とゆかりのある「光格天皇」をご縁に、光格天皇の指示した茶道速水流と宗燕家元好みの茶銘を拝受した京都 祇󠄀園辻󠄀利の魅力を発信します。
駐車場所
(19日と20日では異なりますのでご確認の上お越しください)
10月19日(土)
10月20日(日)
※10月20日は、陽願寺境内地は駐車不可、大寶寺様は(越前市本町10-2)稚児行列参加者の乗降のみとなります
浄土真宗の宗祖親鸞聖人の法脈が続く真宗出雲路派本山毫攝寺(越前市清水頭町2-9)にて、参拝法要を勤修します。
陽願寺は、毫攝寺善鎮上人が、本願寺蓮如上人の北陸布教の際に教化を受け、建立されました。
創建550周年を機縁に、敬いの心をもち、毫攝寺の御影堂・阿弥陀堂にて参拝法要がつとまります。
出雲路山毫攝寺
室町時代本願寺蓮如上人の願いにより、創建された陽願寺は越前の多くの門徒の念力の結集により創建され550周年を迎えます。
有縁の方々はじめ門信徒とともに50年に一度の大きな節目を祝う記念法要を親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要と併せつとまるほか、ゆかりある光格天皇に支持された茶道速水流家元 速水宗燕氏による仏前献茶式も行われます。
仏前献茶式 (茶道速水流家元)
茶道速水流宗匠 速水宗燕氏
プロフィール
速水流第7代家元速水宗樂氏の長男として京都にて出生。
平成元年、六歳にて北野天満宮において初点前を行い、以降、家元 茶事・茶会に数多く参加。 仏教大学文学部中国語中国文学科に在学中には、聖護院門跡献茶式などの半東を務め、卒業後、茶道速水流の執事補に就任、教授として稽古場を開始し、近江八幡市立資料館、相愛大学、丸の内朝大学等で講師をつとめる。 平成20年、 聖護院門跡にて出家得度し、若宗匠を襲名披露、以降、 東京、大阪、滋賀、広島等に稽古場を開設する。 韓国サンミョン大学や佛教大学、京都新聞社主催の和文化講演会等講演実績も数多くあり、茶道の精神を精力的にひろめる。平成31年、聖護院門跡にて、宮城奏年猊下より茶号「宗燕」を授与。八代家元を継承する
御堂 陽願寺(浄土真宗本願寺派)
江戸時代中・後期、茶人速水宗達様により創始された流派です。
流祖速水宗達宗匠が成立した丁寧で優雅な所作は、「宮廷風」といわれ、第119代光格天皇から熱く支持をされ、弟君の聖護院宮盈仁親王や公家や大名の師匠となりました。
流祖宗達宗匠は、「茶道とは茶を介して人と人とが誠心の交わりを結ぶ礼式」と言われ、茶道速水流の理念として、現代にいたるまで大切に引き継がれています。
詳しくは、速水流HPまで http://hayamiryu.com/hayamiryu.html#top
京都・祇󠄀園の地から、最高の宇治茶をお届け。
祇󠄀園辻󠄀利の歴史は、1860年(萬延元年)。
屋号を初代・辻󠄀利右衛門の名より「辻󠄀利」とし、山城国宇治村(現・京都府宇治市)にて宇治茶の製造と販売を開業したことに始まります。
また、時代に合わせ宇治茶の味わいを追求する祇󠄀園辻󠄀利は、1978年に宇治茶専門茶寮「茶寮都路里」をオープン。宇治抹茶を贅沢に使った良質な抹茶スイーツを開発・提供しています。
これからも、京都・祇󠄀園や東京スカイツリーなどを筆頭とした全国6店舗やオンラインショップにて、お茶がもたらしてくれる「歓び」のひとときを、多くの方々へお届けしてまいります。
詳しくは、祇󠄀園辻󠄀利HPまで https://www.giontsujiri.co.jp/
陽願寺所蔵の光格天皇の御冠の市指定文化財を記念に、光格天皇の庇護を受けた茶道速水流と宗燕家元好みの銘を拝受した京都祇󠄀園辻󠄀利のお茶の魅力を発信します
実施日 2024年10月19日(土)・20日(日)
時 間 10:00~17:00迄(16:30受付終了)
場 所 陽願寺庫裏
メニュー 創建550周年限定パフェ・限定ぜんざい・アイス・ドリンク等
創建550周年限定 「紅金パフェ」
浄土(仏様の世界)をイメージし、金箔を散らしています
陽願寺限定 「御堂陽願寺ぜんざい」
抹茶アイス
特選グリーンティーフロート
特選グリーンティー(温・冷)
抹茶オレ(温・冷)
茶道速水流宗燕御家元御好みの抹茶・抹茶オレ・つじりの里・つじりの月・がとーぶぶチョコクランチ・壺切茶など多数販売
茶道速水流 速水宗燕御家元御好み-
御薄茶 玉帛之白 40g缶
茶道速水流 速水宗燕御家元御好み-
御濃茶 清鐘之昔 40g缶
がとーぶぶチョコクランチ
フィナンシェ
つじりの里
つじりの月
壺切茶
格調高い「御殿の間」から十三代藤枝澤楊師が作庭したと伝わる壮大な庭園を眺めながら、速水流宗燕御家元御好みの祇󠄀園辻󠄀利の抹茶「玉帛之白」と創建550周年限定の御家元御好みの厳選菓子が召し上がれます
茶道速水流宗燕御家元御好みの抹茶「玉帛之白」(祇󠄀園辻󠄀利)
茶道速水流御家元御好み 「金の小春月重ね」(きんのこはるつきかさね)菓匠おくむら
速水流の帛をモチーフとして季節の色を重ね合わせ、阿弥陀如来の極楽浄土をイメージし、金箔を散らしました
プチギフト(陽願寺オリジナル桃山)御菓子司野木
創建550周年を記念し、陽願寺の調査全般を担当した岡村喜史氏により、陽願寺の歴史や文化について講演いただくとともに、親鸞聖人御誕生八五〇慶讃法要を記念し、浄土真宗を開いた宗祖親鸞聖人が開いた他力の信心を説いた仏教ミュージカルを初公開します。
実施日 2024年10月19日(土)
場 所 本 堂(御堂)
参加費 無 料
出演:岡村喜史氏(本願寺史料研究所上級研究員・中央仏教学院講師・元龍谷大学准教授)
時 間 13:30
出演:劇団音芽 脚本・作曲:谷口真彌 監修:本多至成(恵光寺前住職)
浄土真宗、宗祖親鸞聖人750 回大遠忌を記念して作られた仏教歌劇。時は建久。源頼朝によって鎌倉幕府が開かれたこの時代は、武士の力が一気に強まった時代であった。民衆は、絶えず起こる合戦で住む場所を追われ、生きる糧も満足に得られず、年老いたものや、力のない女子供は次々と倒れていく。まさにこの世の地獄であった。そんな世の無常を知った二十五歳の「範宴」―後の親鸞―は、自力の修行の限界を感じていた。二十九歳の春、厳しい修行に明け暮れた叡山を下りる決意をし、その足で、聖徳太子が建立したとされる六角堂に出離生死の道を求めて参籠をした範宴は、観音菩薩に語りかけられるという不思議な夢を見る。 そしてついに、その導きに従って専修念仏の祖、法然上人と出会う。 多くの人々にお念仏の心を説いて回った親鸞聖人のご生涯をミュージカルでおとどけします。
時 間 14:15
・劇団紹介
劇団音芽(げきだん おとめ)
2002年に旗揚げ、女性だけのミュージカル劇団として関西を拠点に活動。『感動の芽を多くの人に』の言葉をモットーに本公演を始めとした自主公演に加え、ファミリーミュージカルや仏教歌劇を中心とした、教育機関での鑑賞会、寺院に於いての法要公演等、あらゆる分野においての依頼公演、外部出演を行なっています。上演作品は脚本・歌曲等、全て劇団オリジナルでファンタジックな演出や衣装デザイン、美しいメロディーラインを持った音楽を特徴とし、 女性ならではの感性で作り上げる舞台をお届け致します。
劇団音芽HPはこちら
本願寺蓮如上人は、福井の地にて多くの民衆を阿弥陀如来の本願力により救済すべく、布教に力を注ぎました。その信仰跡は寺院のみならず、民家にも現在においても受け継がれています。本展を通して、陽願寺初め門徒の間で受け継がれてきた浄土真宗の信仰跡を初めて公開します
実施日 2024年10月19日(土)~12月末迄の土、日、祝
時 間 10:00~17:00(受付:16:30迄)
場 所 出雲宝物殿
建築年代:安政3(1856)年(推定)
構造形式:木造・切妻造、桟瓦葺、平屋建
建築面積:292.3㎡
国登録有形文化財
庫裏は東面する本堂の北側に建つ。切妻屋根の妻面を正面にする。梁間を正面とすることから桁行13.21m、梁間21.8mになる。桟瓦葺切妻造り、大型の木造平屋建てとするが、天井裏は屋根裏部屋とする。本堂側の南側面の前寄りに式台玄関を付属するが、対面所北側に接続する玄関棟の式台部分を戦後に移築したものである。東に面する土間は間口2間半とする。土間の左側は1間幅の細長い部屋として受付を設ける。土間右側は板床になり台所炊事場になる。土間上の中央部は板間になり、土間床境に1尺1寸角の欅大黒柱を立てる。奥に部屋が続くが内装は改修されており応接間と集会所になる。
「一寸一間絵図」により旧平面間取りが明らかになる。土間右側は庭になり竈と井戸が築かれている。井戸は現存している。中央の板間は左右に分けて左側に大きな囲炉裏が置かれている。現在は板床になる。板間の奥は奥行一間半の役僧部屋になり、さら中庭があるが、現在はこの中庭に床を張り庫裏の応接間、集会所になっている。中庭は絵図と現状の柱位置から復元すると幅6.52m、奥行3.74mになり庫裏側に落ち縁が通り、両側に1間の板廊下を復元することが出来る。土間の上部は小屋組を棟木まで見せて壮観である。屋根裏部屋は板間上になり大引き組の上に床板が張られている。戦後の改修により竿天井が部分的に張られている。納骨堂落慶時の古写真に庫裏の本堂側に屋根が一段高く上がって見えており、太鼓楼になっていたことが判る。外壁は真壁の白漆喰塗で腰は竪板張りとする。
建築年代は嘉永5年(1852)大火の翌年に始まり、和釘の痕跡があることなどから江戸後期から再建を始められたとみられる。また前出絵図に、庫裏の奥に対面所が接続するが、屋根は別棟になることが判る。陽願寺庫裏は内部の改修がみられるが絵図と比較できることから柱配置は同一で再建時の平面型式を残していること。妻面を正面とする外観に繋ぎ海老虹梁や梁組を見せており庫裏の特色を良く残していること。大型の本堂に相応しい外観を見せていることが、特筆できる。
文化財調査書より一部引用
建築年代:昭和初期
構造形式:鉄筋コンクリート造平屋建、方形造、桟瓦葺
建築面積:21.36㎡
国登録有形文化財
蓮如堂(納骨堂)は、境内東の山門を入った右手奥の境内北東隅に正面を南にして建てられている。
背面の銘板や関係書類により、願主を第15世藤枝照真として昭和初期に竣工している。
設計者は、当時の福井の建築設計界を牽引していた伊藤貞氏(伊藤建築事務所)、施工は
織田(現越前町)に拠点を置き戦前から当地で活躍していた織田土建(株)の橋本巳之助氏である。
建物の周囲に高さ約0.9mの基壇を造り、その上に蓮如堂(納骨堂)が建つ。基壇は壁面を人造石洗い出し、石段は花崗岩、床はモルタル目地切とする。
外壁は全体に石積を模した目地を入れ、出隅部と上部を残して四方の壁を外側に突出さ
せる。正側面3方は0.36mから0.6mまで下部を斜めに広げて張り出し、正面に出入口、
側面に縦長の片開ガラス窓を3カ所設ける。長く伸ばした軒の下端に合わせて、正側面3方には下部の窓と位置を合わせて3カ所のガラス欄間窓を立てる。
礼拝室は床を畳敷、内壁・天井を漆喰下地の壁紙貼りとし周囲を四分一で止める。造作材は桧である。側面の3カ所の窓の内側には、壁面幅いっぱいに引分障子を立て、欄間窓からの採光もあって、明るいが厳かで斉一な空間となっている。
陽願寺納骨堂は昭和初期に建てられた鉄筋コンクリート造である。従来の納骨堂が持つ暗さを感じさせない空間構成は、新しい時代に向けた願主と設計者の共通の認識であったように感じられる。現状を見ると、短い工期とは思えない完成度である。外観はすぐ前の時代の帝冠様式を連想させるが、屋根は設計当初は銅板であり、当初の設計は重厚な本体の上に、軒の深い屋根が軽やかに載るものであったが、現状においても納骨堂にふさわしい存在感のある建物である。昭和初期の納骨堂として新しい空間構成を実現した秀作であると考える。
髙嶋猛氏(越前市文化財保護委員会委員・建築学)・文化財調書より抜粋
建築年代:明治30 年頃(推定)
構造形式:木造・入母屋造、桟瓦葺、平屋建、切石積基壇
建築面積:12.6㎡
国登録有形文化財
鐘楼は、山門から本堂正面に向かう参道の南側に位置して高さ2.1mの切り石積基壇上に建つ。軸部は4本の丸柱を建て、内法上に虹梁、柱頂に頭貫、台輪を置き出組の斗栱を詰め組とする。虹梁は全長に亘って反り上がり、袖切は禅宗様の大柄の渦になるが長く伸びる若葉と共に彫り幅が太く江戸末期から明治期の煩雑な文様になっている。虹梁端部は獅子彫刻の丸彫り木鼻を架ける。軒廻りは二軒、繁垂木を総扇垂木に並べて、軒隅部は大きく反り上がる。出組の木鼻は龍の丸彫りとして軒を飾る。屋根は入母屋造り桟瓦葺きになり、瓦棟通りは本堂に平行、妻破風は南北に面する。隅棟、大棟は獅子口瓦。各柱間は11尺6寸四方になる。基壇上には南側の石段10級から上がる。
鐘楼は全体の様式は禅宗様になり、詰め組、木鼻、虹梁彫刻文様は特に目をひく。軒は扇垂木にして、茅負、布裏甲は大きく反り上がりが外観を特色つけている。
建築年代は基壇切り石積の本堂側に面する中央に「明治二三年七月二六日 正信」1890とあり組積時に刻銘されていること、明治32年(1899)刊「若越宝鑑」所載の陽願寺図に境内入り口近くに鐘楼が描かれていること等から明治23年(1890)から明治30年(1897)頃に建築されたことになる。本鐘楼は連枝になる別格寺院に相応しい大型本堂の前面にあることから高い石積基壇に建ち、大きく反り上がった禅宗様の様式と緻密な彫刻に飾られており明治初期の鐘楼建築として評価できる。なお、前掲の陽願寺絵図に鐘楼横に山門が描かれており、現存する山門に相当する。高麗門型式になり明治期の移築と伝える。本鐘楼は陽願寺の伽藍景観を構成する重要な建造物である。
文化財調査書より一部引用
建築年代:昭和17年代(1942)(推定)
構造形式:木造・入母屋造、桟瓦葺、2階建
建築面積:70.99㎡
国登録有形文化財
離れは客殿として建てられ、洋館の西側に接する。二階建て、入母屋造り桟瓦葺きで東面する。木造真壁になる。外壁は真壁の白漆喰塗を基本とする。
平面構成は庭園に面する側を上位の部屋として構成される。
建築年代は前出の昭和17年(1942)の明細書に図面が描かれていることからこの時に新築されたとも考えられ、洋館に引き続き建築されたことになる。意匠は全体に上質で、数寄屋調の古材をふみ込み板に使う等の工夫が特色になる。陽願寺客殿(離れ)は昭和10年代の和風建築として貴重であり保存状態が良いことは特筆できる。連枝の住職が日常に使用する建物であり、招待する客のための建物として興味深い。古材を使った数寄屋意匠などは共に陽願寺の伽藍景観を構成する重要な建造物である。
文化財調査書より一部引用
建築年代:昭和9年(1934)(推定)
構造形式:木造・寄棟造、桟瓦葺、平屋建
建築面積:45.45㎡
国登録有形文化財
洋館は御殿の西側に位置して座敷前の落ち縁廊下に接続する。全体が御殿南の庭園に面しており南面する。規模は桁行10.2m、梁間は廊下を含み6.12mになる。屋根は洋瓦葺き風に見せるためレンガ色桟瓦葺き寄棟造りになる。外観は大壁で腰を洗い出し目地切、壁を粗い「ぶっつけ壁」とし、軒まで左官で塗り上げた木造平屋建になる。
平面構成は2室からなり方側に廊下を設ける。中央室は応接間になり庭園に面する側に六角に張り出したベランダ室を設けて、主室は8畳大になる板床である。天井は漆喰鏡天井になり周囲をモールディングする。天井中央に円形座を設けて照明を吊りさげる。現在の照明器具は当初と思われる。天井は応接と同様の仕上げになり中央に照明器具を吊り下げる。廊下の窓も突き出し開き窓になり締め金具が残っている。洋館廊下の突き当りに便所が設けてあり、同時期の建設とみられる。
建築年代は当山第十四世藤枝澤通師の急逝後に住職になった藤枝照真師が昭和9年(1934)に結婚することから、この時期に合わせて建築されたと考えられる。父藤枝澤通が、本山派遣のフランス留学をしたことなどから、洋館を建築したとも考えられる。陽願寺洋館は寺蔵の建築造営書類が遺り経過をうかがい知ることができることは貴重であること、洋風の隅切の八角ベランダを部屋に取り込んだ応接室と書斎からなり、天井飾照明など昭和初期の洋館として保存状態が良く貴重である。陽願寺の伽藍景観を構成する重要な建造物である。
文化財調査書より一部引用
建築年代:安政3(1856)年(推定)
構造形式:木造・切妻造、桟瓦葺、平屋建
建築面積:169.19㎡
国登録有形文化財
御殿は対面所の西側に「控えの間」を介して接続する。御殿の南側は本堂の背面を見る位置になり、本堂との間を庭園にしている。外壁は真壁の白漆喰塗である。西側の離れ側の腰壁は竹を竪に詰張りとし、離れからの視線への配慮が感じられる。
御殿の平面構成はL型に並んだ3室からなり、対面所側を「次の間」、中央を「座敷」として大床を設ける。「次の間」「座敷」境は竹の櫛欄間になり漆塗り竿天井になる。「座敷」の北は「御座の間」になり床違い棚、出書院を設け、塗り框を付けて一段高く上段になる。「御座の間」は本山から御門主が来訪した時に使われたと考えられる。広縁は次の間、座敷の2面にあり幅1間畳廊下になり「さや」と呼ばれる。座敷横の広縁は杉戸絵を嵌めた物入れになる。広縁の外側に落ち縁になり外周に雨戸を廻す。座敷横の落ち縁は、後接になる洋館へ繋がる。
御殿南に広がる庭園は、中央部を低く掘り下げて、座敷からの眺望が庭全体に届くように工夫されている。庭園樹を形よく剪定手入れがなされており、中央部は平庭石に囲まれた池を設けている。「次の間」前の落ち縁は本堂の後堂に繋がる登り廊下になり切妻屋根が被る。御殿屋根は切妻桟瓦葺きになるが、中央部を緩やかな起こり屋根としている。後接になる洋館は御殿から廊下で繋がる。
建築年代は「一寸一間絵図」に描かれていることから江戸時代後期から建築が始まったと思われる。陽願寺対面所が公式性の高い西本願寺対面所「鴻の間」を再現したものに対し、陽願寺御殿は西本願寺白書院を再現したもので、限定的な人数で御門主と対面するための施設と考えられる。また、上段から正面に庭を配しているところは、新しく開放感がある。
文化財調査書より一部引用
対面所
建築年代:安政6(1856)年~明治44(1911)年(推定)
構造形式:木造・切妻造、桟瓦葺、平屋建、
建築面積:181.5㎡
国登録有形文化財
対面所は庫裏の西側にあり、本堂の外陣内陣の側方に廊下を介して並ぶ位置に建つ。東西を軸線として桁行9.53m梁間12.24mになり両側に半間の落ち縁が付く。外壁は真壁の白漆喰塗とし、「控えの間」には数寄屋風の仕上げが見られる。
平面は庫裏側から「広間」「使者の間」「対面所」の3室から構成される。「対面所」の背面に現在「竹の間」と呼ばれる数寄屋風の「控えの間」が付設するが「一寸一間絵図」には一間幅の畳廊下になっており。明治35年(1902)落慶法要の後、明治44年(1911)まで親鸞聖人650回忌法要の頃、改修増築されたとみられる。また同絵図に庫裏との間は中庭になっており、接続は両端間に1間幅の廊下で繋がれていた。現在も「広間」東は真柱壁になり両端が出入り口になっている。「広間」北側に玄関棟が残るが同絵図にある式台は、戦後、庫裏の側方に移築されている。「広間」「使者の間」は内法上を小壁として対面所側と区画する。「使者の間」「対面所」は後補の竹の節欄間で天井上を見通しできる。天井は猿頬天井、竿天井としている。対面所は2間の大床、1間の違い棚としている。
建築年代は本堂庫裏と同時期とみられ、江戸末から建築が開始されたとみられ、小屋組に和釘の使用が認められる。「控えの間」は6畳和室と4畳の次の間から構成されており、長押には面皮杉材が使われ数寄屋風になる。陽願寺対面所は西本願寺の御門主と深いつながりを持つ陽願寺の格式の高さを表していると考えられ、御門主が福井御坊に下向する際、御門主の宿泊や休息に使われることを想定して、御門主が越前の僧侶や門徒と対面の儀式をするために造営されたとみられる。
文化財調査書より一部引用
竹の間「控えの間」
建築年代:安政3(1856)年(推定)
構造形式:木造・寄棟造、桟瓦葺、平屋建
建築面積:616.8㎡
国登録有形文化財
本堂は、御堂とも呼ばれ、桁行11間,梁間9間(桁行26.7m梁間24.19m)桟瓦葺き寄棟造り木造平屋で平面は浄土真宗の型式になる大型本堂である。外陣は円柱を4本建て、無目敷居と虹梁によって桁行を3区画に分けている
建築年代は嘉永5年(1852)大火後の再建になる。後堂の柱に和釘痕跡が残ることから江戸末に軸組が出来ている
陽願寺本堂は浄土真宗本堂の型式をとるが、広縁の内陣寄りを外陣に取込み外陣鞘の間としていること、内陣余間の規模は奥行き梁間共に大型であり、さらに御簾の間(御堂座敷)もあることなど、本山の格式を備えた大型本堂建築であることが特筆できる。なお、内陣にはおよそ一万枚を超える金箔が使用されている。内陣宮殿は、文化6年の裏書が残されていることから、御本尊とともに嘉永年間の火災を免れたことがわかる。本堂屋根形状は寄棟になるが、前身本堂が入母屋屋根であったことから延焼したことから、防火のために破風屋根型式としなかったと伝えられている。桁高さは大きく、寄棟屋根の大型本堂は周辺の寺院においても、ひときわ目立つ外観であり、地域の重要な景観といえる。
文化財調査書より一部引用