陽願寺の
歴史を知る
陽願寺の
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昭和初期
建築家・伊藤貞の設計、橋本巳之助の施工により、
鉄筋コンクリート造の納骨堂が完成する
1947(昭和22)年
陽願寺、西本願寺より准由緒寺の称号を賜る。
1949(昭和24)年
照真法師(陽願寺第十五世)、陽願寺に「白道会」を結成、日曜学校を開く。
県内外から様々な講師を招き、仏教の大衆化をはかる。
1958(昭和33)年
照真法師、本願寺派総局次室長に就任
本願寺第二十三世勝如上人の随行として北米・カナダ・南米を巡教
1964(昭和39)年
陽願寺、本願寺第二十三世勝如上人御親修のもと、親鸞聖人七百回大遠忌法要を盛大に営む
1973(昭和48)年
陽願寺、本願寺即如新門様(本願寺第二十四世宗主)御来臨のもと、創建500周年記念法要を営む
2000(平成12)年
陽願寺蓮如上人五百回大遠忌並びに落慶法要を勤修する
2006(平成18)年
藤枝至聖(陽願寺現住職)大徳山恵光寺(萱振御坊)より入寺する。
2013(平成25)年
西本願寺専如新門(大谷光淳様)御来臨のもと陽願寺親鸞聖人七百五十回大遠忌法要並びに伽藍修復慶讃法要を営む。
2018(平成30)年
陽願寺の伽藍(建造物)、寺宝の本格的な調査が始まる。
2020(令和2)年8月7~9月27日
創建550周年・市制施行15周年・越前市武生公会堂記念館特別展を記念し、
「御堂 陽願寺の名宝」及び「陽願寺特別拝観」が開催。併せて越前市観光協会による「越前武生のTemple Sweets」が開催される
建築年代:安政3(1856)年(推定)
構造形式:木造・切妻造、桟瓦葺、平屋建
建築面積:292.3㎡
国登録有形文化財
庫裏は東面する本堂の北側に建つ。切妻屋根の妻面を正面にする。梁間を正面とすることから桁行13.21m、梁間21.8mになる。桟瓦葺切妻造り、大型の木造平屋建てとするが、天井裏は屋根裏部屋とする。本堂側の南側面の前寄りに式台玄関を付属するが、対面所北側に接続する玄関棟の式台部分を戦後に移築したものである。東に面する土間は間口2間半とする。土間の左側は1間幅の細長い部屋として受付を設ける。土間右側は板床になり台所炊事場になる。土間上の中央部は板間になり、土間床境に1尺1寸角の欅大黒柱を立てる。奥に部屋が続くが内装は改修されており応接間と集会所になる。
「一寸一間絵図」により旧平面間取りが明らかになる。土間右側は庭になり竈と井戸が築かれている。井戸は現存している。中央の板間は左右に分けて左側に大きな囲炉裏が置かれている。現在は板床になる。板間の奥は奥行一間半の役僧部屋になり、さら中庭があるが、現在はこの中庭に床を張り庫裏の応接間、集会所になっている。中庭は絵図と現状の柱位置から復元すると幅6.52m、奥行3.74mになり庫裏側に落ち縁が通り、両側に1間の板廊下を復元することが出来る。土間の上部は小屋組を棟木まで見せて壮観である。屋根裏部屋は板間上になり大引き組の上に床板が張られている。戦後の改修により竿天井が部分的に張られている。納骨堂落慶時の古写真に庫裏の本堂側に屋根が一段高く上がって見えており、太鼓楼になっていたことが判る。外壁は真壁の白漆喰塗で腰は竪板張りとする。
建築年代は嘉永5年(1852)大火の翌年に始まり、和釘の痕跡があることなどから江戸後期から再建を始められたとみられる。また前出絵図に、庫裏の奥に対面所が接続するが、屋根は別棟になることが判る。陽願寺庫裏は内部の改修がみられるが絵図と比較できることから柱配置は同一で再建時の平面型式を残していること。妻面を正面とする外観に繋ぎ海老虹梁や梁組を見せており庫裏の特色を良く残していること。大型の本堂に相応しい外観を見せていることが、特筆できる。
文化財調査書より一部引用
建築年代:昭和初期
構造形式:鉄筋コンクリート造平屋建、方形造、桟瓦葺
建築面積:21.36㎡
国登録有形文化財
蓮如堂(納骨堂)は、境内東の山門を入った右手奥の境内北東隅に正面を南にして建てられている。
背面の銘板や関係書類により、願主を第15世藤枝照真として昭和初期に竣工している。
設計者は、当時の福井の建築設計界を牽引していた伊藤貞氏(伊藤建築事務所)、施工は
織田(現越前町)に拠点を置き戦前から当地で活躍していた織田土建(株)の橋本巳之助氏である。
建物の周囲に高さ約0.9mの基壇を造り、その上に蓮如堂(納骨堂)が建つ。基壇は壁面を人造石洗い出し、石段は花崗岩、床はモルタル目地切とする。
外壁は全体に石積を模した目地を入れ、出隅部と上部を残して四方の壁を外側に突出さ
せる。正側面3方は0.36mから0.6mまで下部を斜めに広げて張り出し、正面に出入口、
側面に縦長の片開ガラス窓を3カ所設ける。長く伸ばした軒の下端に合わせて、正側面3方には下部の窓と位置を合わせて3カ所のガラス欄間窓を立てる。
礼拝室は床を畳敷、内壁・天井を漆喰下地の壁紙貼りとし周囲を四分一で止める。造作材は桧である。側面の3カ所の窓の内側には、壁面幅いっぱいに引分障子を立て、欄間窓からの採光もあって、明るいが厳かで斉一な空間となっている。
陽願寺納骨堂は昭和初期に建てられた鉄筋コンクリート造である。従来の納骨堂が持つ暗さを感じさせない空間構成は、新しい時代に向けた願主と設計者の共通の認識であったように感じられる。現状を見ると、短い工期とは思えない完成度である。外観はすぐ前の時代の帝冠様式を連想させるが、屋根は設計当初は銅板であり、当初の設計は重厚な本体の上に、軒の深い屋根が軽やかに載るものであったが、現状においても納骨堂にふさわしい存在感のある建物である。昭和初期の納骨堂として新しい空間構成を実現した秀作であると考える。
髙嶋猛氏(越前市文化財保護委員会委員・建築学)・文化財調書より抜粋
建築年代:明治30 年頃(推定)
構造形式:木造・入母屋造、桟瓦葺、平屋建、切石積基壇
建築面積:12.6㎡
国登録有形文化財
鐘楼は、山門から本堂正面に向かう参道の南側に位置して高さ2.1mの切り石積基壇上に建つ。軸部は4本の丸柱を建て、内法上に虹梁、柱頂に頭貫、台輪を置き出組の斗栱を詰め組とする。虹梁は全長に亘って反り上がり、袖切は禅宗様の大柄の渦になるが長く伸びる若葉と共に彫り幅が太く江戸末期から明治期の煩雑な文様になっている。虹梁端部は獅子彫刻の丸彫り木鼻を架ける。軒廻りは二軒、繁垂木を総扇垂木に並べて、軒隅部は大きく反り上がる。出組の木鼻は龍の丸彫りとして軒を飾る。屋根は入母屋造り桟瓦葺きになり、瓦棟通りは本堂に平行、妻破風は南北に面する。隅棟、大棟は獅子口瓦。各柱間は11尺6寸四方になる。基壇上には南側の石段10級から上がる。
鐘楼は全体の様式は禅宗様になり、詰め組、木鼻、虹梁彫刻文様は特に目をひく。軒は扇垂木にして、茅負、布裏甲は大きく反り上がりが外観を特色つけている。
建築年代は基壇切り石積の本堂側に面する中央に「明治二三年七月二六日 正信」1890とあり組積時に刻銘されていること、明治32年(1899)刊「若越宝鑑」所載の陽願寺図に境内入り口近くに鐘楼が描かれていること等から明治23年(1890)から明治30年(1897)頃に建築されたことになる。本鐘楼は連枝になる別格寺院に相応しい大型本堂の前面にあることから高い石積基壇に建ち、大きく反り上がった禅宗様の様式と緻密な彫刻に飾られており明治初期の鐘楼建築として評価できる。なお、前掲の陽願寺絵図に鐘楼横に山門が描かれており、現存する山門に相当する。高麗門型式になり明治期の移築と伝える。本鐘楼は陽願寺の伽藍景観を構成する重要な建造物である。
文化財調査書より一部引用
建築年代:昭和17年代(1942)(推定)
構造形式:木造・入母屋造、桟瓦葺、2階建
建築面積:70.99㎡
国登録有形文化財
離れは客殿として建てられ、洋館の西側に接する。二階建て、入母屋造り桟瓦葺きで東面する。木造真壁になる。外壁は真壁の白漆喰塗を基本とする。
平面構成は庭園に面する側を上位の部屋として構成される。
建築年代は前出の昭和17年(1942)の明細書に図面が描かれていることからこの時に新築されたとも考えられ、洋館に引き続き建築されたことになる。意匠は全体に上質で、数寄屋調の古材をふみ込み板に使う等の工夫が特色になる。陽願寺客殿(離れ)は昭和10年代の和風建築として貴重であり保存状態が良いことは特筆できる。連枝の住職が日常に使用する建物であり、招待する客のための建物として興味深い。古材を使った数寄屋意匠などは共に陽願寺の伽藍景観を構成する重要な建造物である。
文化財調査書より一部引用
建築年代:昭和9年(1934)(推定)
構造形式:木造・寄棟造、桟瓦葺、平屋建
建築面積:45.45㎡
国登録有形文化財
洋館は御殿の西側に位置して座敷前の落ち縁廊下に接続する。全体が御殿南の庭園に面しており南面する。規模は桁行10.2m、梁間は廊下を含み6.12mになる。屋根は洋瓦葺き風に見せるためレンガ色桟瓦葺き寄棟造りになる。外観は大壁で腰を洗い出し目地切、壁を粗い「ぶっつけ壁」とし、軒まで左官で塗り上げた木造平屋建になる。
平面構成は2室からなり方側に廊下を設ける。中央室は応接間になり庭園に面する側に六角に張り出したベランダ室を設けて、主室は8畳大になる板床である。天井は漆喰鏡天井になり周囲をモールディングする。天井中央に円形座を設けて照明を吊りさげる。現在の照明器具は当初と思われる。天井は応接と同様の仕上げになり中央に照明器具を吊り下げる。廊下の窓も突き出し開き窓になり締め金具が残っている。洋館廊下の突き当りに便所が設けてあり、同時期の建設とみられる。
建築年代は当山第十四世藤枝澤通師の急逝後に住職になった藤枝照真師が昭和9年(1934)に結婚することから、この時期に合わせて建築されたと考えられる。父藤枝澤通が、本山派遣のフランス留学をしたことなどから、洋館を建築したとも考えられる。陽願寺洋館は寺蔵の建築造営書類が遺り経過をうかがい知ることができることは貴重であること、洋風の隅切の八角ベランダを部屋に取り込んだ応接室と書斎からなり、天井飾照明など昭和初期の洋館として保存状態が良く貴重である。陽願寺の伽藍景観を構成する重要な建造物である。
文化財調査書より一部引用
建築年代:安政3(1856)年(推定)
構造形式:木造・切妻造、桟瓦葺、平屋建
建築面積:169.19㎡
国登録有形文化財
御殿は対面所の西側に「控えの間」を介して接続する。御殿の南側は本堂の背面を見る位置になり、本堂との間を庭園にしている。外壁は真壁の白漆喰塗である。西側の離れ側の腰壁は竹を竪に詰張りとし、離れからの視線への配慮が感じられる。
御殿の平面構成はL型に並んだ3室からなり、対面所側を「次の間」、中央を「座敷」として大床を設ける。「次の間」「座敷」境は竹の櫛欄間になり漆塗り竿天井になる。「座敷」の北は「御座の間」になり床違い棚、出書院を設け、塗り框を付けて一段高く上段になる。「御座の間」は本山から御門主が来訪した時に使われたと考えられる。広縁は次の間、座敷の2面にあり幅1間畳廊下になり「さや」と呼ばれる。座敷横の広縁は杉戸絵を嵌めた物入れになる。広縁の外側に落ち縁になり外周に雨戸を廻す。座敷横の落ち縁は、後接になる洋館へ繋がる。
御殿南に広がる庭園は、中央部を低く掘り下げて、座敷からの眺望が庭全体に届くように工夫されている。庭園樹を形よく剪定手入れがなされており、中央部は平庭石に囲まれた池を設けている。「次の間」前の落ち縁は本堂の後堂に繋がる登り廊下になり切妻屋根が被る。御殿屋根は切妻桟瓦葺きになるが、中央部を緩やかな起こり屋根としている。後接になる洋館は御殿から廊下で繋がる。
建築年代は「一寸一間絵図」に描かれていることから江戸時代後期から建築が始まったと思われる。陽願寺対面所が公式性の高い西本願寺対面所「鴻の間」を再現したものに対し、陽願寺御殿は西本願寺白書院を再現したもので、限定的な人数で御門主と対面するための施設と考えられる。また、上段から正面に庭を配しているところは、新しく開放感がある。
文化財調査書より一部引用
対面所
建築年代:安政6(1856)年~明治44(1911)年(推定)
構造形式:木造・切妻造、桟瓦葺、平屋建、
建築面積:181.5㎡
国登録有形文化財
対面所は庫裏の西側にあり、本堂の外陣内陣の側方に廊下を介して並ぶ位置に建つ。東西を軸線として桁行9.53m梁間12.24mになり両側に半間の落ち縁が付く。外壁は真壁の白漆喰塗とし、「控えの間」には数寄屋風の仕上げが見られる。
平面は庫裏側から「広間」「使者の間」「対面所」の3室から構成される。「対面所」の背面に現在「竹の間」と呼ばれる数寄屋風の「控えの間」が付設するが「一寸一間絵図」には一間幅の畳廊下になっており。明治35年(1902)落慶法要の後、明治44年(1911)まで親鸞聖人650回忌法要の頃、改修増築されたとみられる。また同絵図に庫裏との間は中庭になっており、接続は両端間に1間幅の廊下で繋がれていた。現在も「広間」東は真柱壁になり両端が出入り口になっている。「広間」北側に玄関棟が残るが同絵図にある式台は、戦後、庫裏の側方に移築されている。「広間」「使者の間」は内法上を小壁として対面所側と区画する。「使者の間」「対面所」は後補の竹の節欄間で天井上を見通しできる。天井は猿頬天井、竿天井としている。対面所は2間の大床、1間の違い棚としている。
建築年代は本堂庫裏と同時期とみられ、江戸末から建築が開始されたとみられ、小屋組に和釘の使用が認められる。「控えの間」は6畳和室と4畳の次の間から構成されており、長押には面皮杉材が使われ数寄屋風になる。陽願寺対面所は西本願寺の御門主と深いつながりを持つ陽願寺の格式の高さを表していると考えられ、御門主が福井御坊に下向する際、御門主の宿泊や休息に使われることを想定して、御門主が越前の僧侶や門徒と対面の儀式をするために造営されたとみられる。
文化財調査書より一部引用
竹の間「控えの間」
建築年代:安政3(1856)年(推定)
構造形式:木造・寄棟造、桟瓦葺、平屋建
建築面積:616.8㎡
国登録有形文化財
本堂は、御堂とも呼ばれ、桁行11間,梁間9間(桁行26.7m梁間24.19m)桟瓦葺き寄棟造り木造平屋で平面は浄土真宗の型式になる大型本堂である。外陣は円柱を4本建て、無目敷居と虹梁によって桁行を3区画に分けている
建築年代は嘉永5年(1852)大火後の再建になる。後堂の柱に和釘痕跡が残ることから江戸末に軸組が出来ている
陽願寺本堂は浄土真宗本堂の型式をとるが、広縁の内陣寄りを外陣に取込み外陣鞘の間としていること、内陣余間の規模は奥行き梁間共に大型であり、さらに御簾の間(御堂座敷)もあることなど、本山の格式を備えた大型本堂建築であることが特筆できる。なお、内陣にはおよそ一万枚を超える金箔が使用されている。内陣宮殿は、文化6年の裏書が残されていることから、御本尊とともに嘉永年間の火災を免れたことがわかる。本堂屋根形状は寄棟になるが、前身本堂が入母屋屋根であったことから延焼したことから、防火のために破風屋根型式としなかったと伝えられている。桁高さは大きく、寄棟屋根の大型本堂は周辺の寺院においても、ひときわ目立つ外観であり、地域の重要な景観といえる。
文化財調査書より一部引用